Tel:0569-21-1730 浄土真宗 真宗大谷派 坂田山 順正寺
愛知県半田市堀崎町1丁目58番地

住職 法話

順正寺のご門徒の皆さんに毎月お届けしている「順正寺たより・プンダリーカ」を掲載しています。

正思惟/しょうしゆい 2017/06/01

正思惟

 お釈迦様は、八つの正しい行いとして八正道を説いた。その一つが「正思惟」だ。
正しく物事を思い考えなさい、という。 簡単な教えではあるが、その意味するところは深い。
どんな家を建てるにしても、まず基礎工事をしっかりとしておかないと進まないのだ。
 「和尚さんのお話は難しくて、わからん!」
 こんなことを言われたときは、もう一度相手の顔をのぞき込んで考える。
 「わからん!と言うが、どうわからんのだろうかと。」
これが最大の問題だ。
 仏法は、不可思議である。 思いはかることが出来ないこと(不可思議)を、正しく(正思惟)思い考えなさい。と言うのだから、ますますわからなくなるのは当たり前だ。
 まず第一に理解すべきことは、人生に何の問題もない人は仏法もとりたてて必要ないのだ。 人生すべてがハッピー順風満帆ならばどうして、諸行無常の話など必要になるものか。
 仏法を聞いてみたいと思う人は、必ずその心のどこかに何かを抱えている。ある人は悲しみであったり、ある人は虚無感であったりする。  仏法のお話は、常に自分自身の心の中とつながっている。自分の心の中と照らし合わせながらの理解だ。  心を横に置いて、数学の方程式のように仏法だけを理解しようと思っても、それは意味がない。ただ難解不明なお話になってしまう。
 人の心の中ほどやっかいな場所はない。
真っ直ぐ進むことが出来る時もあれば、迷路に迷ってしまうこともある。そこにはちょっと触れてほしくはないんだけどと、扉を閉めてしまうこともある。  人の心は、体験と共に人生の時間の流れの中で形成されてきた。長く生きていればそれだけ長い時間かけて心は出来上がってきたのだ。  それを仏法は一つ一つ紐解いていく、自ずと時間が必要だ、それと向き会うひとりの時間が必要だ。
 たとえるならば、お漬け物のようなもの。
大根をぬかの中に漬ける。 一晩たって大根を取り出して、うまくないと言ってあきらめてしまっては意味がない。 お爺さんやお婆さんから受け継いだ智恵のある家庭では、そんなことはしない。漬け物を美味しくするには、少しばかりの環境と時間そして忍耐が必要だ。  すべての条件が整えば、あるとき美味な食材と変容する。
 お釈迦様が言われる「正思惟」もそのようなものだ。
学校のテスト前日の「一夜漬け」とは到底いかない。 高価なバッグを買ってきて自慢するように仏法を理解しようと思っても無理な話。
 正しく向き会い、理解出来ることは理解して、分からないことは分からないままにしておく。
ある日、新たな理解が芽生えるかもしれない。
そうでないかもしれない。 すべて、ご縁である。  仏法にご縁があった、一生をかけて理解し深めてゆくもの。
 そのようであると、私は理解する。
順正寺 住職 

2017/05/01 北朝鮮 日 本 アメリカ

ミサイル

   かつての太平洋戦争とは様相がガラリと変わった。 今では核弾頭を搭載したミサイルが相手国に照準を合わせにらみ合い、指導者たちは脅し合う。 いったんそれが現実のものとなれば、数日で0かそれとも100かの決着がついてしまう。 この状況に私たちはどのように向き会ったら良いのだろうか。
 国にも人間と同じように業がある。 日本はかつての戦争で多くの犠牲を払った。70年以上の年月が過ぎたが、未だその傷は癒えたとは言えない。 かつての大国の植民地化に一石を投じ国の尊厳を守ろうとしたとはいえ、その代償はあまりにも大きかった。 誰も侵略などしたくない。されたくもない。近隣の国々とは仲良くやっていきたいと思うことはみな同じだ。
 アメリカにはアメリカの業がある。 アメリカは開拓者の国だ。それは成功者としての誇りを持っている。しかし、別の視点から言えば、勝者になるのか敗者になるのか。いつもその決断を迫られてきた。それはいつしか、敗者には決してなるまいという恐怖心をこころの底に抱え込んでしまった。  自分たちの富や平和を壊そうとするものには即座に反応する。銃社会と言われるように、銃を持っていることは、それだけの恐怖をこころに抱えていることに他ならない。
 北朝鮮には独自の業がある。  歴史をさかのぼれば、いつの時代も大国の意向に振り回されてきた。政治も文化も思想もだ。 半島にあるという地理的なことも要因ではある。 中国という大陸の国の顔色を常に窺うということはしょうがないとしても、 アメリカにまで、そんなことはしたくない。 それは自尊心を持つことが出来なかった国の持つ悲しみだ。
 考えてみると、北朝鮮はずっと前から日本をミサイル攻撃出来る軍事力は持っていた。しかし日本国内では取り立ててそれを脅威だと考えることはすくなく。テレビでは、AKB、オリンピック、真央ちゃん引退だ、と平和そのもの話題ばかりであった。  核実験を北朝鮮がおこなったとしても、国は貧しく国力は失われていく。何の徳もないことは分かっている。  しかし、アメリカ本土に到達する核弾頭を搭載したミサイルが開発されそうだ、と言うことになったとたん状況は大きく変化した。
 アメリカは勝利者たちの国だ、それは何よりも敗者になることを異常なほどに恐れる。  日本はある意味、敗者の国だ。 敗者は耐えて耐えて、もう一度自分たちの尊厳を取り戻すにはどうしたら良いのかと考える。
 ナンバーワンなる必要はなく、二番目三番目でも良い。そこに住む人家族が安寧に生活できることこそが何にも代えがたいものを理解したのではないだろうか。
 2500年の歴史の中で仏教徒たちも困難な時代を通り抜けてきた。  私たちも同じようにこの状況を、まず冷静の見定めなくてはならない。              順正寺 住職

2017/04/01 嘘

嘘

 事実を照らし合わせていくと、誰かが嘘をついている。
しかしその誰かがわからない。
政治家か、官僚か、それとも証言をした本人なのか。
日本中こんな空気が漂い続けている。
嘘をつく人は、隠さなければならない何かを抱えている。
または、人を貶めてやりたいと。いろいろな思いが渦巻いている。
嘘をつかれた人は、だまされたと腹を立てる。
 仏教は全く違う視点で、そのすべてを見る。
嘘をつくという行為は、自分自身を蝕んでいく。人を欺く以上に自分を欺いていく。 自分のこころを濁し、魂を濁し、 生きる生気を失っていく。
それはあまりにも手軽に出来てしまう故、嘘は習慣になり無意識の行いと心に浸透していく。 その人の瞳には生気が消えていく。

 自ら汗を流し喜ぶ人は欺くことをしない。
その必要が無い。自分自身の井戸から水をくみ、生きる活力としているからだ。
嘘をつく人は、自分の井戸から水をくもうとしない。 自分は汗をかかずに、人の井戸から水をくみ楽をしようと考える。 しかしそれは所詮人のもの、自分の井戸はいつまでたっても活力を生み出さない。涸れ井戸になるのを待つだけだ。
 小さな嘘が次の嘘を呼び込む。 いつしか大きな嘘になり、形となって自分に戻ってくる。

 仏教が説く「宿業/しゅくごう」とは、いつか自分にすべてが返ってくるということ。
それは人のせいでもない、運が悪い訳でもない。 ただ、目先の利益しか見えなくて、自分が何をしているのか知らないのだ。
 このことに気づくことが出来れば、誰一人そのような愚かなことはしない。

 釈尊は、言う。
 「正しい言葉を語りなさい。」(八正道)
 無明の闇の中に生きる人たちへの慈しみの言葉だ。
  順正寺 住職

2017/03/04 澄んだ水、濁った水

2500年前、インド・ブッダガヤ。シッダルタは、ニランジャナ河のほとり、大きな菩提樹の木に座りひとり瞑想に入った。
目を閉じ体を楽に保ち、動かず。心と意識を内側へ、内側へと。自分自身の心と向き合っていった。
人の心は濁った水にたとえられる。濁った水を通して世界を見ると、正しく見ることは出来ない。
見えたり見えなかったり、色も違って見えたり、形も見間違える。
水が濁っているからと、何かですくってみたり揺すったり、あれやこれやとしたところでいっこうに濁りは無くならない。
釈尊は、菩提樹の木の下でただ自分のこころと向き会った。
その水に対して、何の力も加えずに。来ては去り、来ては去る思いを 評価もせず、
歓びもせず悲しみもせず。だ見つめている、観察している。ひたすら忍耐の心を持って。

水

すると何が起こるか。仏教ではこれを奇跡と言う。
濁った水は少しずつ下へ、そして上に澄んだ水の層が現れる。
それは微かな変化だ。心が忙しいと見逃してしまう。
もう少し忍耐の心を持っていると、澄んだ水の層はさらに大きくなっていく。

自分が自分自身に働き掛ければかけるほどに、水は澄んでいく機会を失っていく。
心を無にしようとする思いそのものが障害となる。心をそのままにして、何も足さず、何も引かず。ただ傍らに置いて観察する。
すると、何かがまったく違う方向へと動き始める。思いもよらぬ方向へと動き始める。その存在自体が濁ったものを落としていく。
人の心が外側へと向かっている間は、物事がうまくいかないのは社会が悪いからと考える。誰か人の行いが間違っているからと考える。
しかし、事実はそうではない。根本的な原因はそこではない。こちら側の問題だ。
こちらの水が濁っているのか、それとも澄んでいるのか。このことがすべての問題の根っこにある。

英語の原語は、元々インドの古代の言葉サンスクリット語だと言われている。〈Medicineメディスン〉薬という言葉と〈meditation メディテーション〉瞑想という言葉は同じ語源から派生したと言われている。
釈尊が菩提樹の木の下で自身の心と向き合われた、ここから仏教ははじまった。
そして今日私たちは、このプロセスを理解することが出来たならば、多くの災いの原因を理解出来る。
未来の平安を思い描くことが出来る。

順正寺 住職

六角堂ステンドグラス

ステンドグラス

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