Tel:0569-21-1730 浄土真宗 真宗大谷派 坂田山 順正寺
愛知県半田市堀崎町1丁目58番地

2018/05 八正道シリーズ カルマ・業

この時期になると田んぼには水が張られ、稲が植えられるのを待っている。
そして秋には金色の稲が実った風景を思い浮かべる。
良い種を蒔くと必ず良い実をもたらす。
悪い種を蒔くとそれは必ず悪い結果をもたらす。
「業」という仏教語は、種と実にたとえられる。

 最近ではあまり聞かれなくなったが、 「アメリカファースト」とか「都民ファースト」 人間は一人ひとり独立していて、自分のことだけを考えていればそれでよい、と考える人もいる。 まあ、そのような一面が時にはあっても良いとは思うが、仏教は「カルマ・業」という言葉で、そこに一石を投じる。

 仏教の祖師たちは言う。 人は海に浮かぶ島のようなものだ、と。 確かに海に浮かぶそれぞれの島は孤立しているように見える。その島で何が起ころうとも隣の島には影響がない。 しかし、物事を少し深く観察すると、必ずしもそうではないのだ。  島とは大地の一部分だ。大地の高くなった一部分。 それらは海の中ではひとつの大地とつながっていて、仮に海水を全部蒸発させてしまったら、そこにあるのはただのでこぼこした大地だ。 それが海水でほとんどの部分を覆い隠されているから、それらは島になり、あたかも別々の大地が存在するかのような錯覚に捕らわれる。  隣の島で何かが起これば、遅かれ早かれこちらの島にも影響がおよぶ。どのような形でそれが現れるのかはすぐには分からないにしても、とにかくそれはつながったひとつの大地だからだ。  しかし、物事を深く見ようとしない人たちは、その関連性に気づかない。人と向き会うことも同じこと。

 たとえば、誰かが人を傷つけたとする。相手は傷みを感じ怒りを覚え悔しさを抱え込む。 悪い種を蒔いた人は、必ずその悪い実を引き受けていかねばならない。傷つけた本人はいつかなにがしかの報いを受けることになる。 という意味だが、「業」とはそれだけに留まらない。  もっと深く見ていくと、 人を傷つける行為は連なった島々のように、自分とどこかでつながっている一部分を自分で傷つけているのが事実だ。 その行為は、ある意味で自分で自分を傷つけていると同じだ。  人は、その事実に気づかない。 忙しすぎて、物事を深く見ようとしない。 何が起きているのが、深く感じようとしない。
 しかし、カルマとは悪いことばかりでもないのだ。 正しい業の種を植えると、それは同じように働く。
  「本願名号正定業(ほんがん みょうごう しょうじょうごう)」 〈正信偈〉
 アミダの御名を声に出して称えることは正しく定まった業だという。

親鸞は言う。 念仏の種を蒔く人は、秋を待つ必要はない。 その時に、業に捕らわれた心が放たれてその利益(りやく)に 預かっている。 こんなことが、心の中で起きているのだと言う。
順正寺 住職

六角堂ステンドグラス

ステンドグラス

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