Tel:0569-21-1730 浄土真宗 真宗大谷派 坂田山 順正寺
愛知県半田市堀崎町1丁目58番地

2018/09 こころを空っぽにする

 こころの中を覗いてみると、そこにはいったい何があるのか。
釈尊は菩提樹の木の下で、ひとりそのことに取り組んでいた。
 人の行いは、こころから始まる。
そこに怒りがあれば、怒りを行動する。
そこに思いやりがあれば、それが行いになる。
そこに悲しみがあれば、そのような仕草を見せる。
 しかし、人は誤解する。私が怒っているのはあなたのせいだ、社会のせいだと。
私が不幸なのは、社会が悪いからだ、状況が悪いからだと。
子供
 事実は、その反対だ。
こころの中が怒りだらけの人は、怒ることの出来る場所を探し出す。正々堂々、社会の正論をかざしながら怒ることが出来る。
多くの悲しみを抱えた人は、人の幸福を喜ぶことが出来ない。自分と同じような悲しみを与えようと、人に攻撃的になる。
そんな方法で自分の悲しみを埋めようとする。
 しかしそれらは、何もよい結果をもたらさない。人を不幸にするばかりで、自分自身のこころは何も変わらないままだからだ。
本当に自分を変えたいと思うならば、まず自分のこころを覗き込まなければならない。
釈尊の教えはそこに始まる。
 修行をはじめられたばかりの釈尊とて、こころの中をのぞき込めば私たちと同じであったに違いない。
29歳で王宮を向け出し出家した時、一歳にもならない息子ラーフラと妻のヤショーダラに何も告げずに置いてきたのだ。
 すべての迷いの始まりは、この私のこころにある。
そう確信した釈尊は菩提樹の木の下で結跏趺坐(けつかふざ)を組み、こころを静めていく。

 背筋を伸ばし、体を楽にたもち、何もしない。
それでもこころは波立つ。
鼻から呼吸がゆっくりと入ってくる、
お腹がゆっくり持ち上がり、
やがて呼吸とともに沈んでいく。
息は鼻を通して外へ出て、やがて新たな呼吸が来る。
これらの身体で起こっている一連のことを忍耐強く観察するのだ。
 仏教ではそれを「瞑想」「禅定」「観察」と言ったりその状態を「空」「無我」「無為」と言って表現してきた。
 すると、こころは少しずつ整理されていく。
少しずつ空っぽの空間が広がっていく。
必要でない思いは、過ぎ去り、本当に必要なことだけのために、時間とエネルギーが消費される。
波打っていたこころは穏やかになり、その水面にはあるがままの姿が映し出される。
こころが空っぽになっていくと、いろいろなことが起こってくるのだ。

 釈尊の歩まれた道筋を、少しずつでも歩んでいきたいものである。
順正寺 住職

六角堂ステンドグラス

ステンドグラス

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