Tel:0569-21-1730 浄土真宗 真宗大谷派 坂田山 順正寺
愛知県半田市堀崎町1丁目58番地

2017/03/04 澄んだ水、濁った水

2500年前、インド・ブッダガヤ。シッダルタは、ニランジャナ河のほとり、大きな菩提樹の木に座りひとり瞑想に入った。
目を閉じ体を楽に保ち、動かず。心と意識を内側へ、内側へと。自分自身の心と向き合っていった。
人の心は濁った水にたとえられる。濁った水を通して世界を見ると、正しく見ることは出来ない。
見えたり見えなかったり、色も違って見えたり、形も見間違える。
水が濁っているからと、何かですくってみたり揺すったり、あれやこれやとしたところでいっこうに濁りは無くならない。
釈尊は、菩提樹の木の下でただ自分のこころと向き会った。
その水に対して、何の力も加えずに。来ては去り、来ては去る思いを 評価もせず、
歓びもせず悲しみもせず。だ見つめている、観察している。ひたすら忍耐の心を持って。

水

すると何が起こるか。仏教ではこれを奇跡と言う。
濁った水は少しずつ下へ、そして上に澄んだ水の層が現れる。
それは微かな変化だ。心が忙しいと見逃してしまう。
もう少し忍耐の心を持っていると、澄んだ水の層はさらに大きくなっていく。

自分が自分自身に働き掛ければかけるほどに、水は澄んでいく機会を失っていく。
心を無にしようとする思いそのものが障害となる。心をそのままにして、何も足さず、何も引かず。ただ傍らに置いて観察する。
すると、何かがまったく違う方向へと動き始める。思いもよらぬ方向へと動き始める。その存在自体が濁ったものを落としていく。
人の心が外側へと向かっている間は、物事がうまくいかないのは社会が悪いからと考える。誰か人の行いが間違っているからと考える。
しかし、事実はそうではない。根本的な原因はそこではない。こちら側の問題だ。
こちらの水が濁っているのか、それとも澄んでいるのか。このことがすべての問題の根っこにある。

英語の原語は、元々インドの古代の言葉サンスクリット語だと言われている。〈Medicineメディスン〉薬という言葉と〈meditation メディテーション〉瞑想という言葉は同じ語源から派生したと言われている。
釈尊が菩提樹の木の下で自身の心と向き合われた、ここから仏教ははじまった。
そして今日私たちは、このプロセスを理解することが出来たならば、多くの災いの原因を理解出来る。
未来の平安を思い描くことが出来る。

順正寺 住職

六角堂ステンドグラス

ステンドグラス

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